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長年勤務していた従業員が退職し、会社の営業地域内で同業種の事業所を立ち上げ、在職中に築いた顧客との人間関係を利用して営業活動を行い、これまで会社と取引していた顧客が次々と移っているとなると、会社としては、元従業員が顧客を奪いやがったという思いを抱くのも無理はありません。しかし、法律上は、退職した従業員が同業種の事業を始めたり、元の勤務先の顧客と取引したりしても、直ちに違法な行為となるわけではありません。問題となるのは、退職後の競業を禁止する約束があったかどうか、また、顧客を獲得するためにどのような行為が行われたかという点です。
そもそも、従業員には、職業を選択し営業をする自由が保障されています。在職中は、会社との労働契約に基づき、会社の利益に反する競業行為をしない義務を負っていますが、退職すれば労働契約は終了しその拘束力は及ばなくなるため、特別な約束でもない限り、元従業員が同業他社に転職したり、自ら競合事業を始めたりしても、それは原則自由で、会社からそんな殺生なことせんといてえやとは言えません。正確には、言うのは自由ですが、言うたところで法的に止めさせることは原則できません。会社の営業地域内で開業した場合も同じで、会社が特定の地域で営業しているからといって、その地域で同業者が事業を営むことを排除できるわけではありません。
では、会社が退職後の競業を禁止することは一切できないのかというとそういうことはなく、就業規則や個別の合意によって、退職後の一定期間、競業行為を禁止することは実際よく行われています。これを競業避止義務といいますが、競業避止義務を定めれば、必ず有効になるという訳ではなく、退職者の職業選択の自由を過度に制約するような場合には、民法90条の公序良俗に反して無効となる可能性があります。無効と評価されるか否かは、会社が保護すべき利益の内容、従業員の地位、競業を禁止する期間や地域、禁止する業務の範囲、競業を制限することへの代償措置の有無などを総合的に考慮して判断されます。顧客情報や重要な営業上の秘密を扱う従業員について、退職後の一定期間、限定された地域での競業を禁止するような条件であれば合理性が認められる余地はありますが、全従業員について、退職後何年間も広範囲で同業種への就職や開業を禁止するような合意は、無効と評価される可能性は高いでしょう。
競業避止義務について何も定めていなかった場合、会社は顧客を奪われても何もできないのかというと、必ずしもそういう訳ではありません。退職者の営業活動が、社会通念上、自由競争の範囲を逸脱したようなものであれば、民法709条に基づく不法行為責任が成立する可能性はあります。例えば、退職前から顧客に対して会社との契約を解約するよう働きかけたり、会社の信用を傷つける虚偽の説明をして顧客を誘導したりした場合には、違法性が認められる可能性があります。また、会社が管理していた顧客名簿や取引条件などの情報を無断で持ち出し、営業活動に利用した場合も同様です。顧客情報が不正競争防止法上の営業秘密に該当する場合には、同法に基づく差止請求や損害賠償請求が可能となることがありますが、顧客情報であれば何でも営業秘密として保護されるわけではなく、営業秘密に該当するためには、事業活動に有用な情報であること、一般に知られていないこと、そして秘密として管理されていることが必要とされていて、誰でも閲覧できる状態で顧客名簿を保管していた場合などには、秘密管理性が認められない可能性があることに注意が必要です。
会社としては、顧客を奪われたという結果だけに着目するのではなく、どのような方法で顧客が移ったのかを見極めることが大事です。退職前から顧客への勧誘が行われていなかったか、会社の顧客情報が持ち出されていないか、虚偽の説明によって取引先を誘導していないかなどを調査します。仮に違法な行為が認められたとしても、損害賠償を請求するには、その行為によって会社にどのような損害が生じたのかを立証する必要があります。顧客が減少したという事実だけでは、退職者の違法行為によって損害が生じたことの証明として不十分なので、顧客の解約時期、退職者からの勧誘内容、取引先が変更された理由、売上や利益の減少状況などを、できる限り客観的な資料で把握するようにしましょう。
令和8年10月31日
弁護士 石上秀樹