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企業には、従業員が安全かつ健康に働ける職場環境を整える義務があります。この義務は安全配慮義務と呼ばれ、近年、長時間労働による過労、自殺、ハラスメントによる精神疾患、感染症対策の不備など、この義務違反の有無が問題となる場面は広がっています。安全配慮義務については、労働契約法5条が次のように定めています。
「使用者は、労働契約に伴い、労働者がその生命、身体等の安全を確保しつつ労働することができるよう、必要な配慮をするものとする。」
ここでいう「生命、身体等」には、単なる身体の安全だけではなく、心身の健康も含まれるとされています。機械設備による事故防止だけではなく、長時間労働の抑制、メンタルヘルス対策、ハラスメント防止、感染症対策なども安全配慮義務の対象になります。労働安全衛生法3条では、事業者に対し、労働者の安全と健康を確保する責務があることを明確に定めていて、同法に基づく各種規則では、事業者に対し、安全教育、健康診断、作業環境管理など具体的な措置も義務付けられています。つまり、安全配慮義務は単なる抽象的な理念などではなく、労働契約法と労働安全衛生法を中心とする法制度全体によって支えられている企業の法的義務といえます。
安全配慮義務違反が認められた場合、企業は従業員に対して損害賠償責任を負う可能性があります。法的根拠は労働契約法第5条のほか、民法第415条(債務不履行による損害賠償)同法715条(使用者責任)などです。例えば、企業が長時間労働を放置した結果、従業員が精神疾患を発症した場合や、危険な設備を放置して労働災害が発生した場合には、安全配慮義務違反として損害賠償請求が認められることがあります。損害賠償の対象となるのは、治療費だけではなく、休業による収入減少、将来得られたはずの収入(逸失利益)、慰謝料なども含まれます。重い後遺障害や死亡事故では、賠償額が数千万円から一億円を超えるケースも珍しくありません。特に過労死や過労自殺に関する訴訟では、多額の賠償命令が下される事例が多数存在しており、企業経営への影響は極めて大きいといえます。
安全配慮義務について代表的な判例として知られているのが、車両整備中に他の自衛隊員の運転する車両に轢かれて死亡した自衛隊員の両親が国に対し安全配慮義務違反等を理由に損害賠償請求した最高裁昭和50年2月25日判決(陸上自衛隊八戸車両整備工場事件)です。最高裁は、「国の義務は右の給付義務にとどまらず、国は、公務員に対し、国が公務追行のため設置すべき場所、施設もしくは器具等の設置管理又は公務員が国もしくは上司の指示のもとに遂行する公務の管理にあたって、公務員の生命及び健康等を危険から保護するよう配慮すべき義務(以下、「安全配慮義務)という。)を負っているものと解すべきである。)として、国の安全配慮義務違反を認めました。この考え方は、その後の判例や立法にも引き継がれ、現在の労働契約法第5条の基礎となっています。また、電通事件(最高裁平成12年3月24日判決)では、長時間労働による精神的負荷を十分に把握しながら適切な対応を取らなかった会社の責任を認めました。この判決は、企業には従業員の健康状態を把握し、必要な措置を講じる義務があることを明確に示した重要な判例です。
これらの判例からも分かるように、会社の指示ではなく本人が無理をして働いていた、実際の労働時間について自己申告がなかったといった事情だけで企業の責任が否定されるわけではありません。会社が労働時間や健康状態を把握できたにもかかわらず必要な対応を怠った場合には、安全配慮義務違反が認められる可能性があるのです。仮に認めれれるにしても労災保険があるから会社は責任を負わないのではないかと誤解されている方もなかにはおられますが、これは正確ではありません。労災保険は、被災した労働者を迅速に救済するための公的保険制度です。一方、安全配慮義務違反による損害賠償責任は、企業自身の法的責任として判断されます。そのため、労災給付が支給された場合でも、安全配慮義務違反が認められれば、企業は慰謝料や労災保険で補填されない損害について追加の賠償責任を負うことがあります。
この安全配慮義務違反は、民事上の問題だけでは終わりません。労働基準監督署による調査が行われ、労働安全衛生法違反が認められれば、是正勧告や指導の対象となりますし、違反内容によっては、事業者や担当者が罰則の適用を受ける可能性もあるでしょう。重大な労働災害では、業務上過失致死傷罪などが問題となり、刑事責任が問われるケースもありえます。行政調査への対応には多くの時間と労力を要するため、企業活動にダメージを受けることは避けられません。また、労働災害や過労死、ハラスメント問題が報道されると、企業名が広く公表されることにもなります。その結果、採用活動への悪影響、取引先からの信用低下、顧客離れ、株主からの指摘など、さまざまな経営リスクが生じ、職場の安全に不安を感じた従業員の離職が相次ぐことも珍しくありません。
安全配慮義務違反を防ぐためには、日頃から予防体制を構築しておくことが必要です。労働時間の適正な管理、定期健康診断の確実な実施、ストレスチェック制度の活用、産業医との連携、ハラスメント相談窓口の整備、安全教育の実施など、いずれも安全配慮義務を果たすうえで重要な取組みです。現場で部下の体調変化や長時間労働を把握できるのは管理職であることが多いので、安全配慮義務に関する知識を管理職が十分に理解しておいてもらうことも、リスクの未然防止につながるでしょう。安全配慮義務は、労働契約法や労働安全衛生法等を根拠とする企業の法的義務です。これを怠れば、損害賠償責任に加え、労災対応、行政指導、刑事責任、企業イメージの低下、人材流出など、多方面にわたるリスクを背負うことになりかねません。問題が起きてから対応するのでは遅いです。問題を起こさない仕組みをいかに整えるか、関連部署のみならず、代表者自身も考えておく必要があります。
令和8年7月10日
リバティ総合法律事務所 弁護士 石上秀樹