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ご質問にあるように、退職を決意したときはもう辞めるしかないと思っていても、一晩眠って気持ちが落ち着いたり、家族と話し合ったり、あるいは転職先の事情が変わったりして、やはり残りたいと考え直す人は少なくありません。しかし、一度提出した退職届は、簡単には撤回できないのが法律の原則です。簡単に撤回できるようなものなら、会社側も必死に退職届を提出させようとはしません。
退職届と退職願は日常会話では同じように使われていますが、法律上は異なる意味を持つことがあります。一般的に退職願とは、退職させてくださいというお願い、つまり会社に対する申込みという性格があります。これに対して退職届は、私は退職しますという一方的な意思表示として扱われることが多いです。もちろん、名称だけで判断されるものではなく、その内容や提出の経緯、会社の就業規則なども含めて総合的に判断されるため、タイトルが退職届だから絶対に撤回できない、退職願だからいつでも取り消せると単純に言えるものではありません。仮に、退職願としての性質を持つ場合、あくまでも合意解約に向けての申し込みをしたにすぎないので、会社が承諾するまではいつでも撤回できるのが基本となります。それに対して、退職届の性質を持つ、つまり、従業員からの一方的な解約通知と評価される場合は、その意思表示が会社に到達した時点でその効力が発生しますので、撤回できないことが基本となります。
民法上は、期間の定めのない雇用契約については、労働者は退職の意思表示をしてから原則として二週間経過すると雇用契約を終了させることができます(民法627条1項)。これは労働者に退職の自由を認めたルールですが、この退職の意思表示が会社に到達した後、その意思表示を自由に取り消せるかというのは、また別問題です。法律を措いておいても、会社に退職しますと明確に伝え、その意思表示が会社に届いているのに、後になってやっぱり辞めませんと一方的に変更することは難しいだろうなとは感じられると思います。法律でも、意思表示は相手方に到達した時点で効力が生じるという民法の原則(民法97条1項)が存在します。ただ、実際の職場では法律だけで全てが決まるわけではなく、会社が撤回に同意してくれれば、そのまま勤務を続けられるケースも決して少なくありません。逆に、会社がすでに退職を前提として人員配置を変更したり、新しい社員を採用したり、業務の引き継ぎを進めたりしている場合には、撤回を受け入れてくれる可能性は低くなるでしょう。
あとで問題になりがちのは、会社から圧力を受けて書かされた退職届の有効性についてです。例えば、上司から長時間叱責され、辞めるなら今ここで退職届を書けと迫られたような場合や、退職届を書かなければ懲戒処分にする、今日中に書かなければ帰さない、家族にも連絡して説得してもらうぞなど、心理的に強い圧力を受けて提出したような場合です。このような事情があると、ほんとうに本人の自由な意思で退職を決めたのかあとで問題になることがあります。法律でいうなら、詐欺や強迫による意思表示の取り消しが認められるか否かという問題です。もちろん、上司に怒られたからというだけで直ちに強迫になるわけではありませんが、正常な判断ができないほど精神的に追い詰められ、やむを得ず退職届を書かされたような事情があれば、強迫による意思表示だとして、法的に争う余地はあるでしょう。あと、心身の不調が深刻な状態で退職届を書いたようなケースも問題になりえます。重いうつ病や適応障害などで判断能力が著しく低下していた場合には、その当時の意思表示の有効性が問題になることもあります。
退職届を提出した後に後悔した場合、まずはできるだけ早く会社へ相談しましょう(会社から退職強要を受け相談できそうにない場合を除く)。時間が経てば経つほど、会社は退職を前提に動き始めますので、撤回を認めてもらえる可能性は時間が経つほど低くなっていきます。撤回を申し出る際には、感情的にならず、なぜ考えが変わったのかを誠実に説明することが大切です。冷静に考え直した結果、今後も会社に貢献したいと思いました、家庭の事情が変わりました、転職先との契約が成立しませんでしたなど、事情を率直に伝えたほうが、会社としても判断しやすくなります。ただし、会社には撤回を受け入れる義務があるわけではないので、退職の意思表示に無効や取り消しとなる原因がない限りは、なんとか受け入れてもらえるようお願いすることが基本となります。
退職は人生の大きな転機ですので、その判断は、怒りや落胆、一時的な感情だけで決めるべきではありません。職場で嫌な出来事があった直後はもう辞めるしかないと考えたとしても、数日後には気持ちが変わることもあります。ですので、退職届を提出する場合は、十分な検討を重ねることがほんとうは望ましいです。既に提出してしまったのであれば、もう絶対に撤回は無理だと諦める必要もありませんが、会社にお願いさえすれば撤回させてもらえると過度に期待しすぎるのも適切ではありません。仮に、退職の意思が自由な判断ではなかった、強い圧力の中で提出したという事情があるのであれば、労働問題に詳しい弁護士や労働組合、労働局の総合労働相談コーナーなどへ相談することも検討してみてください。
令和8年7月16日
リバティ総合法律事務所 弁護士 石上秀樹