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会社を経営していると、従業員から給料の前借りをお願いされるだけではなく、生活に困っているので、給料とは関係なくお金を貸してほしいと依頼されることもあるかと思います。そんな時、万が一、返済が滞ったとしても、給料とか退職金から差し引いたらええわと考えてしまいがちかもしれません。しかし、法的には、会社が従業員に対して貸付金債権を持っているからといって、当然に退職金などから差し引けるわけではありません。この問題を考えるにあたっては、労働基準法17条の前借金相殺の禁止と、同法24条1項の賃金全額払いの原則という二つのルールを検討する必要があります。
まず確認したいのが、労働基準法の17条で、同条は、「使用者は、前借金その他労働することを条件とする前貸の債権と賃金を相殺してはならない」と定めています。この規定が設けられているのは、労働者が会社に借金を負い、その返済のために会社を辞められなくなるような状況を防ぐためです。つまり、先にお金を貸す代わりに、これから働いて返してもらうという関係を作ることによって、労働者が会社に事実上拘束されることを防止しようとしているのです。会社が従業員に貸したお金がすべてこの前借金に当たるわけではありませんが、労働することが条件となるような前貸に当たる場合は要注意です。
例えば、福利厚生の一環として、住宅資金、教育資金、災害時の生活資金などを貸し付け、返済方法についても労働者の身分的拘束を伴わない仕組みになっているのであれば、通常の金銭消費貸借として、17条の禁止対象にはならないでしょう。それに対し、50万円を貸したるけど、今後毎月の給与から5万円ずつ返済してもらうで、完済するまでは会社やめられへんのわかっとるやんなぁなどと言いつつ貸し付けているような場合であれば、この17条が防止しようとしている場面に限りなく近づくのは容易に想像できます。
17条さえクリアできれば、会社は貸付金を回収するためには何をしてもよいかというとそんなことはなく、次に問題となるのが、労働基準法24条第1項です。退職金については、法律上、すべての会社に支給義務があるわけではありませんが、就業規則、退職金規程、労働協約や労働契約などによって支給条件があらかじめ明確に定められ、労働者に請求権が認められる退職金は、労働基準法上の賃金に該当すると解されています。賃金に該当するということは、みなさんご存じの、「賃金は、通貨で、直接労働者に、その全額を支払わなければならない、」(賃金全額払いの原則)という規律に服することになるということです。民法上は、互いに同種の債権を持っている場合、一定の要件を満たせば双方の債権を差し引くいわゆる相殺が認められていますが、こと賃金については、労働者の生活を保護するため、通常の債権と同じようには扱うことは許されていません。
この点、労働者本人が相殺されることに真意に同意しているような場合にまで、この原則を貫く必要があるのかと疑問を感じられる方もおられるでしょう。裁判所も同じように考えていて、最高裁判所は、使用者が労働者の同意を得て賃金債権と使用者側の債権を相殺する、いわゆる合意相殺について、その同意が労働者の自由な意思に基づくものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するときには、労働基準法第24条第1項に違反しないと判断しています。例えば、貸付金100万円を退職金300万円から差し引き、残額200万円を受け取ることに同意しますと、従業員が自由な意思で合意しているのであれば、相殺が認められる余地があるということです。もちろん、会社と従業員とでは立場の違いがあり、自由な意思による同意かどうかについては慎重に判断されるので、従業員から個別に書面で同意を得ておくことが望ましいです。
ちなみに、24条1項においては、労働者の過半数で組織する労働組合、または労働者の過半数代表者との書面による協定による例外(相殺するのに従業員の同意が不要となる)も認められています。従業員への貸付けが常態化しているような会社であれば、相殺に対する個別の同意を得ていくよりも、この労使協定を締結して、一方的相殺により処理する方が簡便かもしれません。ただし、その場合、相殺できる金額には限度があり、原則として、その支払期ごとに賃金(退職金)額の四分の一に相当する額を超えることができないことに注意が必要です。
令和8年9月7日
リバティ総合法律事務所 弁護士 石上秀樹