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精神科病棟では、患者対応の過程で医療従事者が暴力被害を受けるケースが少なくありません。興奮状態や錯乱状態にある患者から殴打され、骨折等の外傷を負うこともあります。このような場合、原則として労災の対象となります。精神科病棟における患者対応は業務そのものであり、その過程で発生した負傷については、「業務によって生じた災害」と評価されやすいためです。
労災認定では一般に、「業務遂行性」と「業務起因性」という二つの要件を満たす必要があります。業務遂行性とは、事業主の支配管理下で事故が発生したかという問題で、勤務時間中に精神科病棟で患者対応をしていたのであれば、この要件は満たされます。業務起因性とは、その負傷が仕事と関連して生じたものかという問題で、精神科病棟における患者対応には、一定程度の暴力リスクが内在しているため、患者から暴力を受けて負傷した場合には、業務との関連性が認められやすいでしょう。そのため、勤務中に患者から殴られて鼻骨骨折を負ったようなケースでは、一般的には業務災害として扱われる可能性が高いといえます。加害者が患者であるからといって、直ちに労災が否定されるわけではありません。
労災認定がされると、治療費については「療養補償給付」の対象になります。労災指定病院で受診した場合には、原則として窓口負担なしで治療を受けることができます。鼻骨骨折では、CT検査、整復処置、投薬、通院などが必要になることがありますが、これらも労災給付の対象になり得ます。また、けがによって働けなくなった場合には、「休業補償給付」も問題になります。労働者災害補償保険法第14条に基づき、休業4日目以降について、給付基礎日額の60%に加え、特別支給金20%が支給される制度があります。例えば、手術後に出勤できない場合や、医師から安静指示が出た場合には、休業補償の対象となる可能性があります。 さらに、骨折後に嗅覚障害や鼻閉、顔面変形などの後遺症が残った場合には、「障害補償給付」が問題になることもあります。もっとも、鼻骨骨折のみで後遺障害等級が認定されるかどうかは、症状の程度や残存障害の内容によって異なります。
実務においてしばしば問題になるのが、病院側が労災申請に消極的なケースです。医療現場では、「患者さんだから仕方がない」「大ごとにしたくない」などとして、健康保険を使うよう求められることがあります。しかし、本来、勤務中の負傷である以上、労災として処理されるべき事案であれば、労働者には労災請求を行う権利があります。労災申請は事業主の許可がなければできないものではありません。病院が協力しない場合でも、労働者本人が労働基準監督署に対して直接申請することは可能です。その際、診断書、事故報告書、看護記録、同僚の証言などが重要な資料になります。
このような事案では、病院側の「安全配慮義務」の有無が問題になることもあります。労災保険はあくまで最低限の補償制度であり、慰謝料までは補償されないことから、重大な後遺障害が残ったケースなどでは、病院に対する損害賠償請求を別途検討することになります。労働契約法5条は、使用者に対し、労働者が安全に働けるよう必要な配慮を行う義務を定めており、患者からの暴力・暴言の発生が予見できる精神科病棟においては、病院側には従業員に対する適切な安全対策を講じることが求められます。にもかかわらず、①暴力歴のある患者情報が共有されていなかった、②人員不足のまま単独対応をさせていた、③防護訓練や対応マニュアルが整備されていなかった等の事情があれば、病院側の安全配慮義務違反が認められる可能性があります。
精神科医療の現場では、患者からの暴力について、「病気の影響だから仕方ない」、「防ぐことができなかった自分が悪いんだ」と受け止められてしまうことも少なくありません。しかし、法律上、医療従事者の安全は当然に守られるべきものです。勤務中に患者から暴力を受け鼻を骨折したような場合、まずは労災の請求をしましょう。一方で、加害者本人が精神病患者であることから、加害者本人に対する損害賠償請求は、民法713条「精神上の障害により自己の行為の責任を弁識する能力を欠く状態にある間に他人に損害を加えた者は、その賠償の責任を負わない。」を根拠に、認められない可能性があります。加害者の行為によって重い障害を負った場合など、労使保険給付の内容だけでは到底納得がいかないこともあると思うので、病院の安全管理体制に不備がある場合等は、遠慮することなく病院側の責任追及を検討する必要があります。受傷後の病院側の対応に少しでも疑問を感じることがあれば、労働基準監督署や弁護士へ相談してください。
リバティ総合法律事務所 弁護士 石上秀樹