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従業員から、「労災保険の請求書にある事業主証明欄へ記入してほしい」と求められた際、多くの企業担当者が不安に感じるのが、「署名や押印をすると、会社として労災であることを認めた扱いになるのではないか」という点です。特に、業務との関係性に疑問がある場合や、長時間労働、ハラスメント、メンタル不調などをめぐる事案では、会社側として慎重にならざるを得ません。
しかし、結論からいえば、事業主証明欄へ記入したことだけで、会社が法的に「労災である」と認めたことには通常なりません。記載内容によっては、後の紛争や訴訟で重要な証拠となる可能性がありますが、単に「書けば問題ない」「拒否すればよい」という話ではなく、制度の意味を理解したうえで適切に対応する必要があります。押さえておくべき点は、「労災に当たるか」を最終的に判断する主体は会社ではなく、労働基準監督署長であるということです。会社が労災ではないと考えていても労災認定されることがありますし、逆に会社が業務災害だろうと考えていても不支給となることもあります。会社には労災を認定する権限そのものがありません。
労災請求書には、事業主が記入する欄があります。たとえば、療養補償給付たる療養の給付請求書(様式第5号)では、事業場名、労働者の所属、災害発生日時、賃金額、事故状況などを記載する欄が設けられています。この事業主証明は、行政機関である労働基準監督署が事実関係を把握するための資料という位置づけです。会社に法的責任を認めさせる制度ではありません。実際、厚生労働省も、事業主証明が得られない場合であっても、労働者本人による労災請求は可能であるとしています。
会社が証明を拒否したからといって、請求自体ができなくなるわけではありません。あくまでも、事業主証明は「会社の認定」ではなく、「会社が把握している事実の報告」という位置付けです。もちろん、「記入しても認めたことにはならない」とはいえ、安易に記載してよいわけではありません。事業主証明に記載した内容が、後の損害賠償請求や安全配慮義務違反の訴訟で証拠として用いられる可能性がある以上、後で自社に不利に利用されないよう、慎重に記載する必要はあります。たとえば、会社が請求書の中で、「長時間労働が続いていた」「上司による強い叱責があった」「業務中に転倒した」「出張中の移動中に事故に遭った」などと具体的に記載した場合、後に「会社自身もその事実を認識していた」と評価される可能性があります。会社としては、「事実確認済みの事項」と「本人申告に基づく事項」を区別しながら、慎重に記載する必要があります。
実務でよく質問されるのが、「会社として労災とは思っていないので、証明欄への記入を拒否してもよいか」というものです。結論から言うと、単純に拒否する対応は、望ましいとはいえません。労働者災害補償保険法施行規則23条2項は、「事業主は、保険給付を受けるべき者から保険給付を受けるために必要な証明を求められたときは、すみやかに証明をしなければならない。」と規定しています。つまり、証明を求められた時には証明をする義務があるのです。ただし、会社として業務起因性に疑問がある場合には、その旨を明記することは可能です。実際、「本人申告に基づき記載している」「業務起因性については現在確認中である」「会社としては私傷病の可能性もあると考えている」といった留保を付けることがあります。
労働者災害補償保険法施行規則
(事業主の助力等)
第二十三条 保険給付を受けるべき者が、事故のため、みずから保険給付の請求その他の手続を行うことが困難である場合には、事業主は、その手続を行うことができるように助力しなければならない。
2 事業主は、保険給付を受けるべき者から保険給付を受けるために必要な証明を求められたときは、すみやかに証明をしなければならない。
労災請求への対応では、感情的対立を避けることが重要です。従業員から労災請求する意思を聞かされると、「会社を訴えようとしているのではないか」、「責任追及されるのではないか」と構えてしまうことがあります。しかし、労災請求自体は、会社に対してではなく、国の保険給付を求める手続です。会社としては、まず冷静に事実確認を行い、そのうえで確認済み事項を適切に記載することが求められます。特に、死亡事故、重度障害、精神疾患、ハラスメント案件などでは、後に民事訴訟へ発展する可能性もあるため、社会保険労務士や弁護士と連携しながら対応した方が安全かもしれません。会社としては、「労災と認めたくないから証明を拒否する」という発想ではなく、会社として把握している事実を適切に整理し、必要な留保を付けながら協力するという姿勢が大切です。
リバティ総合法律事務所 弁護士 石上秀樹